「昔は、千円の握りが飛ぶように売れたんだ」
「飛ぶようにって?」
「そうねえ。日に百は売れただろうか……。出前も多かったしな」
千円で百と言えば十万だ。一日に十万ならひと月三百万……。それだけじゃないだろうから、月の売り上げは大変な金額になったに違いない。
「昔っていつ頃ですか?」
「バブルの頃よ」
そう言う大将は自虐的な笑いを浮かべ、お湯割りのグラスを一気に空けた。
「懐かしいなあ……」


ここは西之表西町。離島の小さなまちだ。辺境とも言っていいここでさえ、バブルは狂乱の季節だったのだ。それが今や……。大将はカウンターにひろげた新聞を手に取ったが、視線を落とすこともなく日が暮れてすっかり人通りのなくなった通りを見遣った。
「通りにも人があふれてたしなあ。今じゃこのあり様だ……」
大将は小さく舌打ちすると、空のグラスにお湯を注いだ。
壁の時計を見ると、9時を少し回っていた。

店や料理はもちろんだが、その店の「人」が妙に気になる。ここみつわ寿司の大将もそうだ。
はじめてその店をのぞいたのは、7、8年ほど前になるだろうか。どこで一杯やろうかと思案しながら西之表のまちを歩いていた。闇夜に浮かぶ「みつわ寿司」の看板がやけにきれいに見えた。玄関のガラス戸から中をのぞいた。先客はいなかった。落ち着いて飲めるかもと、暖簾を割った記憶がある。
「いらっしゃい……」
お世辞にも威勢がいいとは言えない声の主は、小上がりに腰を下ろして新聞をひろげていた。それが大将だった。ニコッともせずに立ち上がりカウンターの中へ。客が現れたことが、なんだか迷惑そうだなと思った。
瓶ビールを頼んでネタケースを見た。いろいろと並んでいたし、いろいろと注文したが、印象に残っているのは煮方、焼き方を担う奥さんの煮物だった。石蕗と何かを炊き合わせたものや魚の煮付けだったような気がするが、はっきりとは覚えていない。多分、飛び切りうまくもなく、飛び切り不味くもない、ただ優しさだけが伝わって来るような、そんな味だったんだろうと思う。それよりも、はじめての顔でも親しく語りかけてくれ、あれやこれや気にかけてくれることがうれしかった。

山菜とニガタケの天ぷら

大将の造りや握りは……。まあいい。多くを語るまい。しかし、若い頃鹿児島本土の名店で修業を積んできた腕はいっぱしのものだとは思うが、味はあまり印象には残っていない。大将の人柄に心奪われて、味などどうでもよくなっていたのかもしれない。

シメサバはほとんど刺身

大将にはあまり注文をせずに、奥さんの料理だけで飲み続けていたからかもしれないが、そのうち大将はカウンターの隅っこに陣取り晩酌をはじめた。
「もう客も来んやろうもん……」
時計はまだ7時を回ったばかりだった。
やがて大将はカウンターに突っ伏して眠り込んでしまった。
時計は9時を少し回っていた。

マグロとハガツオ

それからしばらくして、とあるスナックで大将と再会した。
寿司折りを2つぶら下げ、大将はご機嫌で現れた。店のお姉さんたちと挨拶を交わし、常連客たちと挨拶を交わし、カウンターの真ん中に腰を下ろした。すでにかなり飲んでいるようだ。わかりやすく言えばヘロヘロという感じだった。
時計は10時半を回ったところだった。
お湯わりのグラスを何杯か重ねた頃、すすめられてマイクを握った。
「いいノドですね」
と話しかけると、満面の笑顔が返ってきた。
「早い時間は寿司を握り、夜が更けたればマイクを握り、っじゃ」
日付はとっくに変わっていた。
早い時間にどれほど寿司を握ったかは知る由もない。

手土産はレタス巻き

次に大将に会ったのはまだ陽の高い時間だった。
腕時計を見ると3時を少し回った頃だった。
店の勝手口を出たところで腰を下ろしていた。仕込みの合間だったのかもしれない。背中を丸めてタバコをくわえ、足元の猫に何かを語りかけていた。
その表情はとても柔和だった。

その夜店をのぞいた。地元の先客が何人か小上がりで飲んでいた。酔いにまかせてあれやこれやと人の噂話に花を咲かせていた。
「騒がしいね。ごめんね」
大将がつぶやくように言った。そういえば、大将が酔っ払って人に絡んだり、管を巻いたりしている場面に出くわしたことがない。
いい感じだな。卵焼きが少々焦げていようが味はいいし、少々酔っていても寿司はちゃんと握れる。ひとりで行くと夫婦で相手をしてくれる。いい感じだ。
だが少々学んだことは、みつわ寿司では9時以降に寿司を注文してはいけないということだ。酔っ払った大将の心地よい眠りを妨げることになるし、機嫌を損ねることにもなりかねない。

卵焼きは素朴な味わいがいい

「昔は、千円の握りが飛ぶように売れたんだ」
「飛ぶようにって?」
「そうねえ。百は売れただろうか……。出前も多かったしな」
「昔っていつ頃ですか?」
「バブルの頃よ」

いつもの会話を繰り返す。
時計はさっき9時を回ったばかりだ。

みつわ寿司
鹿児島県西之表市東町1
電話 0997-23-2829
営業時間 不定
定休日 不定休

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